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2006年12月 2日 (土)

第六十一試合:夕プロに対する”思い”と”情念”と”闘魂”と その1

他のコラムニストの皆様にはもうしわけありませんが、またファンタジスタ賞を
いただいてしまいました。通知のメールを頂いた瞬間、

「あれ?今月何書いたっけ?」

という感じでした。受賞のお礼も兼ねて何か書いた記憶はあるんですが、中身なんだっけ?という感じ(苦笑)。

そんな状態、その程度の思い入れで書いたものでまた賞をもらっちゃうのはほんと気が引けるのですが、もらえるもんはもらっときます。

でも、なんで桃太郎さんが私のコラムを選んでくれるのか分かるような気がする部分もある。私自身、他のコラムを見てて”何も”思わないから。
#暴言ご容赦を。

淡々と会場の情報を書く、これは資料として、観戦する人の助けにもなるのでいいでしょう。他は”思い”が感じられない感想文と、表面的には攻撃的な文章なのに、どこか馴れ合いな感じがしたり、なんというか、”思い”とか”情念”とか”闘志”とか”闘魂”が感じられない。私はというと、観戦にも行かない、週刊誌を立ち読みする、TVは新日とノアを(元々何週も遅れてる大阪なのに)PCでおまかせ録画しといて、HDDを圧迫しだしてあわてて見て消す、という状態のプロレスファン脱落寸前なわけ。そんな中でコラムを書こうと思い立った時、そこにはかなりの”思い”があり、湧き上がるものがあって書いているわけ。それが伝わってるんじゃないかな、と。

今のプロレス界と同じで、表面的には強烈な技の連発だったり、派手な仕掛けをしても、そこの”感情”、”思い”、”情念”、”闘魂”が感じられない。もちろんハッスルにそんなものは求めていないし、勝負論なんてものに左右されるほど若くもない。本来こういうものを売り物にしていたはずの新日から、それがなくなったのがいやなのだ。やはり私にとってのプロレスは新日だから。

こう考えると、やっぱり橋本が新日最後の砦だったのかもしれない。蝶野は頭が良すぎる。武藤は何を考えてるのかわからない。橋本だけが無残な負け方や、つまらないドラマ作りのための引退/復帰劇を演じさせられたり、とにかくその人間くささを見せ付けてくれた。後の世代は。。。何やっても空回りの中西に、何やってもそつないけどつまんない永田に、とにかく人が良すぎて爆発しない天山に。。。多少なりとも感じるものがある選手はみんな出てったよ。

猪木信者を自認してきたけど、最近の猪木の言うことやることにはついていけない。でも、「今の新日には闘いがない」という点だけはその通りだと思う。夕プロコラムニストの皆さんに喧嘩しろ、というわけじゃない。うわっつらの闘いはいらない。門戸開放してるのだからいろんなものがあってもいい。でも、もっと”思い”、”情念”、”闘志”の伝わるコラムをぶつけ合おうよ。

#ちょっと変化球的に続く。。。

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